新・駅長日誌

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達したため、更新を停止致しました。

天理軽便鉄道を探る ③

2017/12/26(Tue)

一昨日の事ですが、もう一つ思い出した「故郷の廃線跡」という事で大阪
との府県境生駒の南側にある信貴山へ行ってきましたクラ駅長です。

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近鉄大阪線河内山本から分岐する信貴線信貴山口へ行き、ソコから
ケーブルカーで登った高安山から、信貴山朝護孫子寺近くまでが通称
「平坦線」と呼ばれた廃線跡です。

そして信貴山東側斜面にもケーブルカーが存在しました。コレは廃線
後に一部の区間がハイキングコースとして残されています。

家を出てからルートを一周して帰るまで4時間程度という、お手軽な
でしたが、色々と変わってる所もあって面白かったですね。

さて天理軽便鉄道を探る旅ですが、廃線跡の中で恐らくココが一番の
見せ場であろう木戸池の築堤です。

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幅にすると3mぐらいレンガ積みの築堤だから、崩れて小さくなったり
もしないでしょう。当時からこのサイズだったと思われますが、やはり
一般的な鉄道より小さい軽便規格ですね。

風景としても家のデザインが変わった程度で、大正時代そんなに差は
ナイと思われます。こんな風景の中を軽便の汽車が走ってたのか。

中央部にあったと思しき鉄橋は、流石に外されています
反対側までの距離は、目測で4mぐらいか。…走り幅跳びで行ける?
まぁヤメときましょう

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元来た道を戻り、池の南側を迂回します。…天理軽便鉄道コノ築堤
に関する説明書きの看板が設置されておりました。

スタートした法隆寺駅斑鳩町ですが、先程の富雄川を越えた所から
安堵町に入っております。…日本で3番目に小さい町だそうな。

JR大和路線は通ってますが、駅はありません。…天理軽便鉄道現代
に残ってたら、安堵駅(後述)があった所なんですがね。
762mmの軽便鉄道が今もあれば、さぞ面白い事になってたでしょうに。

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先程の築堤を見つつ池を迂回すると、西安堵という集落に当たります
民家の横の盛り土になった部分が廃線跡のようですが、どうも歩ける
状態では無さそうなので、更に迂回します。

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この西安堵地区町役場や公民館などの施設が集まっており、安堵町
の中心部という事になるんでしょうか?
トーク安堵カルチャーセンターですか。「安堵」と「&」を掛けた?

この付近に安堵駅が存在らしいので、駅の痕跡がナイか探ってみる
事にしましょう。

→次回に続く



…昨日、父親が84歳にて他界しました
ブログやツイッターに関しては、なるべく平常運転を心がけますが、明日
以降の更新コメント返しリプライ等に遅れが生じる可能性があります
事をご了承下さい。

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No.3957 鉄道廃線跡を探る

天理軽便鉄道を探る ②

2017/12/25(Mon)

今日はクリスマスとは言っても、特に普段と変わりないクラ駅長です。
…近所のスーパーマーケットに、このようなツリーがありました。

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コレに限らず最近よく見かける気がするのですが、七夕間違ってない?
願い事を木に吊るしてどうするんでしょ?
しかも内容がまた…と言うかコレは明らかに大人の字だわな。

私も含めてですが、日本人悪い意味柔軟性がありすぎますよね。

さて天理軽便鉄道を探る旅です。JR法隆寺駅から徒歩でスタートし、
大和路線に沿って東へと歩いております。

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廃線跡の道床に段々と勾配が付いて高めの築堤になってきました。
この先で富雄川(一級河川)を越えるのです。

…相変わらず北側に、大和路線の線路が見えておりますね。先程、ココ
へ来る車内から見た風景コノ辺りに相当するんだと思われます。


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築堤切れ目があるのは、下を通ってた畦道高架橋で越えてた名残り
でしょうか?同じ経度にある大和路線にも、歴史を感じるレンガ造りの
低い橋が架かっております。

大和路線コノ区間が開通したのは明治23年の事。…もしかしたら、
ソノ当時から存在する橋台かも知れませんね。

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その先で両線とも富雄川に当たりますが、最近になって護岸工事
行われたであろう新しい堤防なので、天理軽便鉄道の方は痕跡が
ありません
。…折角なので大和路線の方を撮り鉄

221系ってのは私らの世代では、まだまだ新しい方ですが、もう30年
経つんですよね。塗装は変わらないのに内外ともに色々と手が入り
最初とはと違った印象になってるモノもあります。

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大和路線はコノ辺りから北東方向へ曲がり、天理軽便鉄道とは離れて
行きます。そのギリギリぐらいの所で、車窓から見えるコノ部分
大海駅長から指摘を受けて調べるキッカケとなった築堤跡なんですよ。

木戸池という溜池なんですが、その真ん中線路が突っ切ってたという
事ですね。当然に溜池の方が先で、迂回するのが面倒だったんでしょ。

フェンスがあるものの扉が開いてますので、入ってみましょう

→次回に続く



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No.3956 鉄道廃線跡を探る

天理軽便鉄道を探る ①

2017/12/24(Sun)

…私にとって初めての経験なのですが、実家の両親が所有する土地
買いたいという不動屋さんが現れました。
周辺の幾つかの田んぼをマトメて、宅地として転売するのだそうです。

両親ともカナリ高齢なので「お前も立ち会え」という事を言われまして
先日ハナシを聞いたんですが…

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見せられた住宅地図と、Googleの航空写真を比べるに、やはり形が結構
違うようなんです。…とすると坪数なんかも変わってこない?

素人目にもBさんのがCさんより広い事になってるのは不自然だし、
ウチの方がBさんより広い気がするのですが。

こういうのは登記されてる数字の通りに売ると損をする場合があるという
事で、ちゃんと業者さんに依頼して測量をし直した方がイイんでしょう。
…田舎なのでソレほどの価値はナイでしょうが、ソノ測量結果だけは
楽しみなクラ駅長です。

さて新たな報告です。地元奈良県廃線跡という事で、昭和20年まで
存在した近鉄法隆寺線…元の天理軽便鉄道の跡地を探ってきました。

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天理軽便鉄道1915年大正4年に、大阪方面から天理天理教の
聖地
)までの短絡を目的に、新法隆寺~天理で建設されました。

当時はまだ現在の近鉄線存在せず関西本線奈良へ出て桜井線
に乗り換えるという、カナリ遠回りになるルートだったんですよ。
…だから大阪から天理へ行きたい人の中には、法隆寺で降りて約9km
を歩く人
も居たそうな。

ソノ後1921年大正10年大阪電気軌道(現在の近鉄)橿原線
開通させると全線が大軌に買収され、現在も平端~天理近鉄天理線
として残っています。

…切り離された新法隆寺~平端は、以後も762mm非電化のまま法隆寺
として営業を続けておりましたが、戦時中不要不急路線として休止
され、そのまま復活しなかったという歴史なんですね。

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前置きが長くなりましたが、最初だからコノぐらいの説明は要りますな。
今回はJR大和路線法隆寺駅からスタートです。
元は地上駅舎2面3線国鉄スタイル駅でしたが、2007年に現在の
橋上駅舎に変わりました。

…始発の新法隆寺駅ココの駅前にあったと言う事ですが、勿論その
痕跡ありません

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まずはJRの線路に沿ってへ行きます。…目的地の近鉄平端駅まで
は、当時の営業キロ4.3kmレンタサイクルが妥当な距離であり、
法隆寺周辺観光地なのでお店も存在するのですが、戻ってくる必要
がありますから、ソレが面倒で歩く事にしました。

…ちょっとした溝の橋枕木の廃品だったする所がイイですね。

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暫くは新しい住宅地が続き、線路の痕跡はナイのですが、ソレが切れると
田んぼの中に畦道と化した道床が現れます。

…右はJRの電車内から見た風景ですが、段々と勾配を付けて高くなって
いくのが分かると思います。この先で富雄川を越えるからなんですね。

そんな感じで天理軽便鉄道跡地を探る旅が始まりました。
廃線時の線名は「近鉄法隆寺線」なのですが、上の方がイメージに近い
ので、今後もソレで表記する事にします。

→次回に続く



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No.3955 鉄道廃線跡を探る