(紀伊)下里駅 勝手にお絵描き会
2018/10/24(Wed)
播磨下里絡みで現地に泊まる場合によく使う、加古川のホテルです。
…我ながら分かりにくい画像で申し訳ナイのですが、前回泊まった部屋
が、たまたま廊下の一番奥と言うか建物の端っこだったんですよ。
土地の形からしてそうなのか、端っこのカドが直角ではなく、ベッドと
壁の間…天井も梁と壁の間に、微妙な直角三角形の隙間が生じて
おりました(右はベッドに寝て天井を見上げた視線です)。
…ソノ分だけでも部屋が広いのは有り難い事なのかも知れませんが、
何となく落ち着かないと言うか、デッドスペースにしてしまうワケには
行かなかったのかな?と疑問に思いましたクラ駅長です。
さて南紀方面への旅ですが、駅ノート設置駅だった湯川でソレを描こう
としたら現物が無く、別の紙に描いてる時に思い付いた発想で、2駅
戻って下里という駅で途中下車しました。
日々のお絵描き教室は北条鉄道の播磨下里駅ですが、「播磨」という
旧国名が被せてあるという事は、別に「下里」又は「○○下里」と称する
駅が存在する事になるワケですよね。
「ドコにあるんだろう?」と一度は考えたけど、すぐに忘れてそのまま
放置してあった発想です。…今回偶然に見つけてしまいました。
駅舎の規模としては、播磨下里と変わらない小さな無人駅ですね。
屋根のヒサシが壊れてるのは、先日の台風の影響でしょうか?
この日も段々と雨がキツくなってきて、外を出歩くのがツラい状況です。
交換設備を有する駅で、対向式のホームは跨線橋で繋がれています。
…旧国鉄なだけに、有効長は無駄に長いですね。10両は行けそう。
ココにも先程の湯川と同じフォーマットで、駅の歴史を紹介する掲示物
がありました。木造の駅舎は昭和10年の開業当時からのモノだそうな。
…ぇ、昭和10年?
北条線の播磨下里は大正6年の開業だから、ココより古いワケですが、
元は播州鉄道の播鉄王子駅(現在も周辺が王子町という地名)として
開業し、昭和18年の国有化の時に、播磨下里と改称したので、駅名
としては後れを取った格好になるようです。
…だから順当なら、こっちが紀伊下里と名乗ってた事になるかな。
駅が無人化されたのは昭和60年の事らしいのですが、ソレより古い
1973年…昭和48年の日付で書かれた、謎の標語が貼ってありました。
「若者よ、古里(ふるさと)に誇りを持て。」ですか。…ココがどんな
土地かは知りませんが、考えたら私も自分の故郷の町ってあんまり
好きではありませんわ。田舎特有の監視社会で情報弱者が多くて。
恐らくソレよりは良い所でしょう。
ともあれ湯川にノートが無かったので、続きの色塗りをココで仕上げて
完成させました。「駅で絵を描く」機会が多くなると、無人駅の空間が
妙に安心出来る環境になったと言いますかね。
そんな感じで湯川と下里で各1時間ずつ、いいペースで描けましたので、
次の普通列車で、再び紀勢本線を次は串本まで戻ります。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
…我ながら分かりにくい画像で申し訳ナイのですが、前回泊まった部屋
が、たまたま廊下の一番奥と言うか建物の端っこだったんですよ。
土地の形からしてそうなのか、端っこのカドが直角ではなく、ベッドと
壁の間…天井も梁と壁の間に、微妙な直角三角形の隙間が生じて
おりました(右はベッドに寝て天井を見上げた視線です)。
…ソノ分だけでも部屋が広いのは有り難い事なのかも知れませんが、
何となく落ち着かないと言うか、デッドスペースにしてしまうワケには
行かなかったのかな?と疑問に思いましたクラ駅長です。
さて南紀方面への旅ですが、駅ノート設置駅だった湯川でソレを描こう
としたら現物が無く、別の紙に描いてる時に思い付いた発想で、2駅
戻って下里という駅で途中下車しました。
日々のお絵描き教室は北条鉄道の播磨下里駅ですが、「播磨」という
旧国名が被せてあるという事は、別に「下里」又は「○○下里」と称する
駅が存在する事になるワケですよね。
「ドコにあるんだろう?」と一度は考えたけど、すぐに忘れてそのまま
放置してあった発想です。…今回偶然に見つけてしまいました。
駅舎の規模としては、播磨下里と変わらない小さな無人駅ですね。
屋根のヒサシが壊れてるのは、先日の台風の影響でしょうか?
この日も段々と雨がキツくなってきて、外を出歩くのがツラい状況です。
交換設備を有する駅で、対向式のホームは跨線橋で繋がれています。
…旧国鉄なだけに、有効長は無駄に長いですね。10両は行けそう。
ココにも先程の湯川と同じフォーマットで、駅の歴史を紹介する掲示物
がありました。木造の駅舎は昭和10年の開業当時からのモノだそうな。
…ぇ、昭和10年?
北条線の播磨下里は大正6年の開業だから、ココより古いワケですが、
元は播州鉄道の播鉄王子駅(現在も周辺が王子町という地名)として
開業し、昭和18年の国有化の時に、播磨下里と改称したので、駅名
としては後れを取った格好になるようです。
…だから順当なら、こっちが紀伊下里と名乗ってた事になるかな。
駅が無人化されたのは昭和60年の事らしいのですが、ソレより古い
1973年…昭和48年の日付で書かれた、謎の標語が貼ってありました。
「若者よ、古里(ふるさと)に誇りを持て。」ですか。…ココがどんな
土地かは知りませんが、考えたら私も自分の故郷の町ってあんまり
好きではありませんわ。田舎特有の監視社会で情報弱者が多くて。
恐らくソレよりは良い所でしょう。
ともあれ湯川にノートが無かったので、続きの色塗りをココで仕上げて
完成させました。「駅で絵を描く」機会が多くなると、無人駅の空間が
妙に安心出来る環境になったと言いますかね。
そんな感じで湯川と下里で各1時間ずつ、いいペースで描けましたので、
次の普通列車で、再び紀勢本線を次は串本まで戻ります。
※→次回に続く
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
No.4259 乗り鉄日誌>JR西日本