我が故郷の廃線跡 ②
2017/09/13(Wed)
…先日触れましたカメラの修理ですが、
取り敢えず一旦返して貰う事にしました
クラ駅長です。
流れとして受け付けた小売店から、まず
修理専門の会社に行き、ソコで手に負え
ない場合にメーカーへ回るという手順に
なるらしく、私のは後者。
で土日を挟むと業務が停まるから、
更に時間が掛かってたのだそうです。
…そして出た見積額は、云っちゃえば同等の中古品が買えそうなレベル
になるのですが、2年間一緒に色んな所へ行き苦楽を共にしてるヤツ
なので、多少は高くついてもヒマな時に改めて修理に出します。
ただ「前回こうだった」という説明を付ければ、最初の手間は省けるかも
知れません。…価格より工期を抑えたいんですよ。
さて大和鉄道です。近鉄西田原本駅から桜井方向へ向けて、廃線跡を
探る旅に出てみましょう。
…確認しておくと途中駅は-寺川-味間-大泉-東新堂-という感じ。
全てが地名や交差点名などとして残ってますから「大体コノ辺だろう」
という予想を付けるのは、地元で育った私にとっては簡単な事です。
西田原本駅から東へ、まずは県道
14号線から少し東の脇道を走ります。
左の駐車場は昔は「田原本デパート」
なる商業施設でした。
…名称がもぅ野暮ったいと言うか時代
を感じるワケですが、エスカレーターの
手すりに子供が馬乗りになって登る
遊びをやってるとか、民度の低い場所
だったのを覚えております。
そして現在の三笠交差点。…田原本町で最も複雑な「6叉路」の交差点
なのですが、標識の中の直進する14号線が線路跡なんですね。
じゃあ昔は踏切内で2本の道路が交差してたのか?…車が少なかった
戦前の事だから、コレでも危険は無かったのかも知れませんが。
ソコから暫く行くと、近鉄橿原線の高架下をくぐります。
…右は反対側からの見た目。リニューアルされたビスタカーだ。
コレは後に高架化したのではなく、古い写真を見ると開通当初から
この線形だった事が分かるのですが(当初はレンガ造りのアーチ式)、
線路ってのは基本的に、先に開通した方が地面、後からの方が高架
やら地下になるワケで…
調べてみると大和鉄道(田原本~味間)が1922年(大正11年)9月3日 。
近鉄橿原線(平端~橿原神宮前)が1923年(大正12年)3月21日。
半年の差で大和鉄道の方が早かった
ようですね。コレは意外でした。
続いては寺川という川を越えます。
ココにも駅があったようで、当然に
昔は鉄道の鉄橋だった事でしょうが
当時の面影らしきモノはありません。
所でこの寺川ですが、私が子供の頃
は「日本一汚い川」として有名でした。
…何かもぅ辟易とするぐらい民度の低い故郷ですが、ともあれ大和鉄道
の旅はまだまだ続きます。
※コメント・感想は→こちらまでお願い致します。
No.3853 鉄道廃線跡を探る