新・駅長日誌

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達したため、更新を停止致しました。

五條市史跡公園 8620型

2018/02/11(Sun)

昨日、亡父満中陰(四十九日)が無事に終わりまして、ソレに関して
何とか一区切りがついた感じのクラ駅長です。
 
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…でまた供物のお下がりで、食材無駄に増えてしまいました。

麦茶とか、使うってば使うんですが夏まで要らない感じだし、茶菓子
関しては画像の量の10倍程度あるし、コレまた消費が大変ですね。

さて、五新線バス専用道跡地の探索を終えた後、五條の市街地まで
帰ってきました。…先述の国道24号線を越える高架橋の近くに、保存SL
があるという事なので、おまけ的に寄り道しておきましょう。

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国道から少し北側へ、坂道を登った所に五條市史跡公園という施設が
あります。
 
五條
江戸時代幕府の天領だったので、元はココに代官所が置かれ
ており、幕末には天誅組という尊王攘夷派の志士によって攻撃された
言う歴史もあるのですが、ソレとは関係なくSLも置いてあるのです

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形式は8620型…言わずと知れた大正期ベストセラー中型機関車です。

資料によると1925年の製造で、最終的に和歌山機関区1972年まで
使われていたそうな。要するに和歌山線も走ったという事でしょうか。

除煙板がナイのでクラシックなスタイルに見えます。元々なのかは不明
「金剛・ハロー号」という謎のニックネームがあるようですが、日付けに
よると昭和47年展示が決まったという事か。…引退の同年ですね。

昭和47年私が生まれた年でもあるのですが、鉄道100年という節目
の年であり、そろそろ先が見えて来た蒸気機関車の静態保存が各地で
盛んに始まった時代なんですよ。

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番号は78675号
大正時代までの機関車は、例によって形式と製造番号との絡み
難しいのですが、コレは特に8620という10位までを含むので…
Wikipediaによると「万の位の数字×80+(下二桁の数字-20)+1=製造順
が製造番号となるそうな。だから616番目。ああ面倒くさい。

そして珍しく「製作費」の表記があり、6,185,800円となってますね。
…勿論当時の貨幣価値でしょうが、企業物価指数で調べるに1925年
2016年で比べると、現在では約504倍。…ぇ、31億円?

そんなにするのか?今だと新幹線1編成ソノぐらいと聞きましたが。
 
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そして8620型テンダ車なので、炭水車を背負っています。…が、また
引っ掛かりを感じまして「450立方こんな字は見た事ナイぞ。

…コレも「恐らく単位に関するモノだろう」と色々調べて「呎=フィート」
かなと推測。1フィートは約30cmだから450立方フィート12.15㎥
ココに「水槽容量」として書いてある13.0㎥に近くなりますね。

製作費からココまで書くのに1時間掛かったワケですが、何とか色々な
疑問が解消出来ました。…単なる保存蒸機ですが、見学した事で勉強に
なったのは事実かな。

という事で五新線から8620型五條市の旅を終え、続いては貧乏料理
のネタを挟んで三重県です。かつて存在した近鉄伊賀線の廃線跡へと
参りますよ。
  


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No.4004 鉄道保存施設を探る

旧逢坂山隧道 ⑤

2018/01/07(Sun)

葬式が終わって面倒な事の1つに「供物の盛り篭の分配」ってのがある
と思うのですが…今は最初の仕分け斎場の係の方がやってくれます。

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何が面倒って「大量に余る」という事です。例によって私も持って帰る
羽目
なり、開封してみると右のような状況でしたクラ駅長です。

恐らくは賞味期限の長そう乾物類が選ばれてると思うのですが、単品
で使う
には微妙なモノばかりですよね。最初は弔電を頂いたヨシヨシ会
皆さんに配ろうかと思いましたが、みんな自炊するイメージナイ方
たちですので、ソレは改めて考えるとして…

コーヒーや紅茶類播磨下里駅に寄付します。で、残ったモノは普通に
私が日々消費するんですが、なかなか大変そうなラインナップだな。
…例えばがメインの料理」って何かあるかしら?

さて旧逢坂山隧道ですが、国道1号線から旧道らしき脇道に入りました。

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…この時点で夕方5時前後
冬場の事であり、逢坂山東山挟まれた場所なので、日暮れは早い
ですね。カメラの露出補正何とか明るく見えてるだけの感じです。

やはり昔の街道なのか、元は旅館っぽい構えの料理屋さんが何軒か
並んでます。…うなぎ屋さんか。美味そうだけど高いだろうなと予測。

右の画像の山裾にある石碑の部分が、旧逢坂山トンネルの西口
当たるようですが…よく分からん?

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はい、こちら側にはトンネルそのものの遺構はなく石碑だけが建て
られてる状況でした。…何故か「とんねる」が平仮名です。
ではトンネルそのものドコへ行ったのか?と言いますと…

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1963年昭和38年名神高速道路が開通した際に、高速道路用にも
逢坂山トンネルを掘ったので、西口はソノ時に埋まってしまったそうな。

ココは府県境を越えて京都府に入ってる筈ですが、高速道路のスパン
から言うと、そろそろ大津案内を出す地点なのでしょう。出口とPA
看板が
目立ちますね。

…実際の所、奈良から滋賀方面へ行くには宇治付近から京滋バイパス
に乗るか、一般道を和束~信楽と抜ける事が多く、私はココは殆ど利用
した事がナイのですが。

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そんな感じで、そろそろ日照時間の限界が来た所で、上手く終わる事
出来ましたので、すぐ近くにある京津線大谷駅から電車に乗って、
帰る事にしましょう。

…昔からソノ存在は知ってたものの、訪れる機会のなかった旧逢坂山
隧道でしたが、東口だけではあるけど鉄道記念物として保存されてる
というのは素晴らしい事だと思います。明治の鉄道技師たち遺徳が
偲ばれる物件ですね。あー、タイムマシンが欲しいわ。

では続けて、また思い出した故郷の廃線跡である信貴山の山上線
東側のケーブル線を探りに行ってみる事にしましょう。



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No.3969 鉄道保存施設を探る

旧逢坂山隧道 ④

2018/01/06(Sat)

葬式の喪主というのは、殆ど「イベントを仕切る仕事」だという事を
理解しましたクラ駅長です。

元々が飲食店勤務なので、必要人数を数えて料理を発注する…とか
言う類の仕事には慣れております

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なのに精進落とし料理が余るってどぅいう事よ?
ソレほど近くない親戚の人が、遠慮したのか用事があったのか、早々に
帰ったからなのですが…完璧を期したい私としては些か不満です。

余った料理誰も手を付けなかったので、持って帰りました
そしてまた内容を仕分けして、早く傷みそうなヤツから順に酒のアテ
します。御飯部分は電子レンジで温め、カレー用に使ったな。

さて逢坂山越えですが、トンネルそのもの歩く事が出来ないので、
国道1号線迂回して西側へと回ります。

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鉄道のソレとは関係なく古代からココは京の都へ入る手前の位置として
関所が設けられた所でした。

現在の地名で言う「逢坂1丁目」の交差点は、東海道である国道1号線と、
湖西を通って若狭方面へ抜ける国道161号線分岐点に当たります。

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並行して走る京津線と、マトメてオーバークロスする大きなアーチ橋
名神高速道路。まぁ現代ではコレが一番の輸送量なのかも知れません。

そして京津線にも逢坂山トンネルがありますが、ソノ付近はカーブ半径
カナリ小さいんですね。

…車両が16m級の小型車ですが、外側のレール車体の真ん中付近
まで
ズレると言うか模型ならイザ知らず、実物の鉄道でこんな光景は
初めて見たかも知れませんよ。

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相変わらず京津線40‰で峠を越えます。道路逢坂山の関所跡
という付近に、石碑と案内看板がありました。

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…やはり本格的に機能していたのは平安時代ごろまでですか。
時代劇のメインとなる江戸時代では、やはり箱根の関所の方が重要
だったのは間違いナイでしょうか。

関所の建物を模して造られた小屋っぽいモノは、公衆トイレです。
寒い中をココまで歩いてきたので有り難く使わせて頂きましたよ。

ココから道は下り坂になります。国道から反れて、旧街道っぽい狭い道
へと進んで行きました。

→次回に続く



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No.3968 鉄道保存施設を探る